「国や時代は違いますが、彼女たちは同じです」
浅野雅姫は、西洋絵画に描かれてきた美しい女性への憧れから出発した。ティツィアーノやパルマ・イル・ベッキオの裸婦画。しかしそのモデルの多くは高級娼婦だった。描く者と描かれる者、見る者と見られる者。美術史が「崇高な芸術」として浄化してきた視線の非対称性を、浅野は現代の性産業に接続する。実在するセックスワーカーと対話を重ね、名画と同じ構図で描く。神話の記号は経済の記号に置き換えられる。キューピッドの矢は1万円札に、春の花はコンドームに。
浅野の制作を駆動するのは理論ではなく、悪戯心と怒りである。匿名の安全圏から、好き勝手なレビューで品定めされる風俗嬢たちを見て、「買う側に一矢報いたい」という衝動が生まれた。インスタレーション《12月31日お礼です》では、風俗嬢から借り受けたキャミソールの内側にスマートフォンを配置し、鑑賞者に「めくる」行為を要求する。覗き見の共犯者となった鑑賞者は、自らの視線の位置を突きつけられる。
「私自身がルッキズムの奴隷なんです」と浅野は認める。美しい女性を描きたいという欲望から自由ではない。モデルとの関係が完全に対等になり得ないことも自覚している。その矛盾を引き受けながら、構造の内部に留まり、内部から転倒させる。浅野の作品に向き合った鑑賞者は、気まずさとともに「してやられる」経験を味わうことになる。