無意識は便利な言葉だと考えます。便利すぎて濫用をしてしまいがちです。無意識と言われると、理由をそれ以上深掘りできないからです。だから無意識を使うのは厄介だと思います。ただ、どのような意味合いで使っているのかによっては、作品の説明や批評に使えます。

由来

無意識を学問の対象にしたのはフロイトです。本人も忘れていたつらい経験が、意識の外に押しやられたまま身体の症状を引き起こす。フロイトはこれを抑圧と呼び、夢を無意識への入口として研究しました。フロイトの研究を芸術に持ち込んだのがシュルレアリスムです。アンドレ・ブルトンはフロイトを敬い、理性の検閲を外して書く自動記述を創作の方法にしました。

フロイトを読み直したのが、精神分析家のジャック・ラカンです。ラカンはダリと交流していました。ラカンは無意識を、意識の下に連続して広がるものとは考えませんでした。無意識は切断されていて、捉えたと思えば別のところへ行ってしまう。しかも言語のように構造化されていて、他者の欲望として自分の中にやってくる、と考えました。

視覚的無意識

ベンヤミンは「写真小史」で、カメラが視覚の無意識を明らかにすると書きました。人が歩き出す一瞬の姿勢を、私たちは見ているのに知りません。写真はそれを写します。精神分析が衝動の無意識を教えるように、写真は視覚の無意識を教える、という見方です。ロザリンド・クラウスは『視覚的無意識』でこの語を引き継ぎ、向きを変えました。クラウスは、視覚そのものに無意識があると論じます。見ることは、見る人の思うほど透明ではありません。

ピエール・ユイグの《UUmwelt》は、この流れの現在の形です。京都大学の神谷研究室との協働で、被験者が頭の中に思い浮かべた像を、fMRIで測った脳活動から再構成させます。同研究室は、眠っている人の脳活動から夢の内容を読み取る研究でも知られています。頭の中にあったはずの像を、機械が推し量ってアウトプットする。画面の像は、定まらないまま明滅します。ユイグは、誰かに何かを見せるのではなく、誰かを何かに見せたいと語っています。そして無意識という言葉を使いません。説明する代わりに、見せています。

イメージと概念

ユングは、個人の経験に由来する無意識の奥に、人類に共通する普遍的無意識を仮定しました。河合隼雄『無意識の構造』によれば、ユングはイメージと概念を対比しています。イメージは生命力を持つが明確さに欠け、概念はその逆です。シンボルは人を動かしますが、意味が言葉にされて把握されると、活力を失います。ユングはまた、心のエネルギーが無意識の側へ引いていく退行を、創造に欠かせない働きと見ました。展覧会の準備が大詰めになると、ぱたりと連絡が取れなくなるアーティストがいます。そして直前に、驚くような作品を見せてくれます。

aaploitの見方

造形の技術を用いるアーティストには、言葉にならない最後のよすががあります。それは無意識と呼ぶほかないところへ落ちていくのだと思えるのですが、そのことと、意味を定めないまま無意識を説明に使うこととは違います。 「無意識的に」と言われて話を続けていると、説明を煙に巻いているだけだと気づくことがあります。無意識は、安易に身を委ねてよいものではありません。そこから何かが侵入してきたとき、それを言葉にすることは命綱になります。

一方で、言葉にし尽くせば、シンボルは活力を失います。言葉は命綱ですが、言葉で作品を覆ってしまえば、作品は死にます。この綱引きを作品の中に見ることがあります。

参考文献

河合隼雄『無意識の構造 改版』中公新書、2017年

新宮一成『ラカンの精神分析』講談社現代新書、1995年

ヴァルター・ベンヤミン『図説 写真小史』久保哲司編訳、ちくま学芸文庫、1998年

ロザリンド・E・クラウス『視覚的無意識』谷川渥・小西信之訳、月曜社、2019年

石谷治寛「スーパーオーガニズムは、電気仕掛けの人間の夢を見るか?」ウェブ版美術手帖、2019年

Serpentine Galleries「Pierre Huyghe: UUmwelt」2018年