これは2025年に開催したいくつかの絵画展を通じて醸成した概念です。

絵画について考えるようになったのはギャラリーを始めてからで、振り返ると2023年に見た春名真歩の作品がきっかけであったと思います。春名は絵の絵を描きたいと言います。それを空気と呼んでいましたが、空気は目に見えないので穴を描くことにした、とも話しています。確かに春名の画面に穴のようなものは認められますが、穴の絵と言われてもピンとこない作品もあります。だからこそ面白い。そして2025年の夏。小左誠一郎のアトリエで作品を観た時、色面として重ねられた画面を前にして、"いま絵を見ている"、とヒラメキがおりてくる体験をしました。絵画は絵画として自足するものです。そこになお引っ掛かりがあることで、今、絵を見ているという自覚を呼び起こす。そうした絵画を自覚的絵画と呼んでいます。作品を観ているうちに、これは絵である、と独り言が漏れました。

絵画には、抽象画、具象画、写実、肖像画、風景画など様々なカテゴライズがありますが、小左の作品も春名の作品も、抽象画として整理するのはいささか乱暴にも思えたのです。

李禹煥は次のように言っています。

「一枚のキャンヴァスと額縁におさまって、壁に掛けられてある風景画。それは、物理的な存在としてはまさに物体自体であるが、しかしそれが見せ伝えようとしているものは、キャンヴァス、色、絵具の厚み、額縁などといったたぐいではあるまい。そこには風景という理念があっても風景そのものはない。しかしそれにもかかわらず、見る者はそこから絵具などではない、風景を見なければならないのである」

見る者は絵具ではなく風景を見なければならない。では反対の側から、絵画から理念を除いてみたら何が残るのか。ストイックな具合ではありますが、それが、自覚的絵画で起きていることです。

参考文献

李禹煥 「出会いを求めて」 『美術手帖』 1970年2月号、美術出版社、p.14(特集「発言する新人たち―非芸術の地平から」)