絵画を見ているとき、多くの場合、目は二通りの働き方をするように思います。
一つは運動です。画面のどこかに最初に目が留まり、そこから視線が画面の中を巡っていく。ある形から別の形へ、ある色から別の色へと移りながら、見る人は自分なりの読み方を組み立てていきます。松田菜優子の絵画では、布に染み込んだ色が、植物や人物や風景を一つの画面に溶け合わせながら、それぞれをわずかに違う存在として佇ませています。視線はそのあいだを行き来し、見ているうちに画面の中の関係が少しずつ見えてきます。
もう一つはフォーカス、凝視です。画面の一点に引き寄せられ、目が離せなくなる。巡るのではなく、深く沈んでいくような見方です。田辺朔葉の肖像画では、何千枚もの写真から作家が選び、合成し、それぞれの断片が一つの顔に編み上げられていく。重ねられた絵具の厚みが、その顔に積もった時間を示しています。その存在感を前にすると、描かれた眼差しから、目が離せなくなります。
どちらが優れているという話ではありません。視線を動かす絵画も、一点に留める絵画も、どちらも良い絵画です。どちらの見方も、これは花の絵です、これは人の顔です、と名前を付けて終わるのではなく、作品の中へ入っていくことから始まります。いま自分の目が動いているのか、留まっているのか。そこに気づくと、絵を見ているという自覚が、少しだけはっきりします。
参考文献
高階秀爾『カラー版 名画を見る眼Ⅰ 油彩画誕生からマネまで』岩波書店(岩波新書)、2023年