作品の中に入り込んでいる(没入している)のに、同時に、その作品を外から見ている。どちらか一方に落ち着くことなく、二つが重なったまま続いていく。そうした鑑賞の状態を、パラドキシカル・デペイズマンと名付けました。
デペイズマンは、シュルレアリスムの言葉です。ものを本来の場所から別の場所へ移すことで、見る人を慣れ親しんだ世界から引き離し、違和感の中へ連れ出します。これに対して、劇作家ベルトルト・ブレヒトが唱えた異化は、見慣れたものをあえて見慣れないものとして示し、観客に距離を取らせる方法です。引き込むことと、突き放すこと。二つはふつう、逆向きに働きます。
この言葉は、萩野真輝との対話の中で生まれました。萩野の作品実践を聞いているうちに、2019年に神戸で体験したグレゴール・シュナイダーの作品が思い出されたのです。同じように見える白い部屋を、いくつも通り抜けていく。身体は空間に呑み込まれていくのに、頭は前の部屋との違いを探し続ける。けれども違いは見つからず、判断は宙に浮いたままになる。そのとき浮かんでくるのは、自分は今、何を見ているのか、という問いでした。
これは作家の意図を説明する言葉ではありません。作品の前にいる鑑賞者の側から名づけた言葉です。
自分は今、何を見ているのか。この問いは、キアスムや自覚的絵画の項目で書いた「見ている自分への気づき」と、根のところでつながっています。空間の中で起きるのがパラドキシカル・デペイズマン、絵画の前で起きるのが自覚的絵画です。