アートとは何か。この注釈の中で、いちばん大きな言葉です。大きすぎて躊躇しますが、ほかの注釈も、結局はこの言葉から離れることができません。定義しようとすると、その定義はたちまち誰かの立場になります。ここでは、いくつかの立場を並べてみます。

アルフレド・ジャーはインタビューで、アーティストが「これはアートだ」と言えば、それはいつでもアートになると語ります。この考え方はマルセル・デュシャンのアイデアに由来すると述べています。1917年、デュシャンは既製品の便器に偽名で署名し、《泉》として展覧会に出品しようとしました。作家の手仕事はほとんどありません。選び、名づけ、展示の場に置くこと。それだけで作品になりうる。ジャーによれば、デュシャンは私たちに考える自由を与え、絵画や特定のメディウムのことは忘れてよいと言いました。これは美しいアイデアだから、これはアートだと言おう。そう考えることができるようになって、美術界と現代アートは根本的に変わった。デュシャンによって、アーティストであることは自由であることなのだと、突然わかった、とジャーは語っています。

ジャーは、デュシャンが「もの」を超えて重要なのはアイデアだと示唆したことにも触れ、大切なのは技術やもの、メディウムの背後にあるアイデアであり、それこそがアートだと言います。この考えは1960年代に引き継がれ、1968年、ルーシー・R・リパードとジョン・チャンドラーは、作品がものから離れていく傾向を「美術の非物質化」と呼びました。翌1969年、ジョゼフ・コスースはさらに押し進め、芸術はトートロジーだと書きます。作品は「これは芸術である」という定義そのものであり、それ以外の何かを指し示すものではない、という考え方です。それより前の1964年、哲学者のアーサー・C・ダントーは、アンディ・ウォーホルの《ブリロ・ボックス》を前に考えていました。スーパーマーケットに積まれた洗剤の箱と、見た目ではほとんど区別がつきません。それでも片方だけが芸術であるのはなぜか。ダントーの答えは、作品を取り巻く理論と歴史の厚み、彼が「アートワールド」と呼んだものでした。デュシャンが「言うこと」で決めた差を、ダントーは理論がつくると考えた。目では見分けられない差です。

メディウムを忘れろというデュシャンの反対側にいたのが、批評家のクレメント・グリーンバーグです。彼は逆に、メディウムに立ち返れと説きました。デュシャンが美しさをアイデアの側に置いたのに対し、グリーンバーグは、それを目に見えるものの側に取り戻そうとしたとも言えます。モダニズムの絵画は、平面であること、色と形であることへと自らを純化していく、と彼は考えました。アートは純粋に視覚的なものだ、という立場です。ただ、何が純粋で何が質の高いものかを決める段になると、グリーンバーグは最後に自分の目、つまり趣味に判断を預けています。視覚の純粋さを支えていたのは、一人の批評家の好みだったのかもしれません。

ヴァルター・ベンヤミンは、作品が「いま、ここ」に一回限り存在することから生まれる気配を、アウラと呼びました。写真や映画のような複製技術が広がると、作品はどこにでも現れるようになり、アウラは凋落していく。ベンヤミンはそれを嘆くだけでなく、芸術と大衆の新しい関係の始まりとしても見ていました。その後、アウラは消えたのではなく、複製のあいだを移動していくのだ、という読み方も出てきています。

美学者の星野太は、崇高、関係、生命という主題から美学を考えています。これはアートの定義というより、アートに触れたときに何が起きているのかを記述する言葉だと思います。圧倒されること、何かと何かのあいだに立たされること、生きているものの手触りを感じることです。

ジャーの言葉には、危うさもあります。インタビューの中で、彼は、私やあなたが「それはアートだ」と言えば、それはアートなのだと言います。そうであれば、誰でもアーティストになれる。けれどもそれでは、何がアーティストなのかを見分けられなくなります。それでもアーティストの核にあるのは、何を選び、何を差し出すのかという身振りだと思います。デュシャンの便器も、選ばれ、名づけられ、置かれたことで作品になりました。

aaploitは、アートを、世界への触れ方に気がつくことだと考えています。アーティストの身振りは、その人が世界にどう触れているかの現れです。作品の前に立つと、自分がどのように世界を見て、触れて、やり過ごしているのかが、ふと見えることがあります。その意味で作品は鏡です。そして、見過ごしていた触れ方を取り戻すことは、私たちの人間性を少しずつ回復することでもあるのかもしれません。

ここに並べた言葉は、互いにぶつかり合っています。アイデアだと言えば技術が残り、目に見えるものだと言えば趣味が残る。誰でもアーティストだと言えば、身振りが残る。aaploit自身の注釈のあいだにも、揺れがあります。けれども、どの定義にも収まりきらずに残るもの、その余りがあるから、アートから目を離せなくなるのだと思います。aaploitが見たいアートは、「なんで?」と思わされるものです。

これも定義のひとつにすぎません。書き直したら、下に残します。

参考文献

「[JP/EN] アルフレド・ジャー インタビュー『アートは私がアートであってほしいと思うもの』|"Why Art?" Alfredo Jaar Interview」Tokyo Art Beat、YouTube、2023年、https://youtu.be/APUe3_gKG-A

Lucy R. Lippard and John Chandler, "The Dematerialization of Art," Art International, February 1968

Joseph Kosuth, "Art after Philosophy," Studio International, October 1969

Arthur C. Danto, "The Artworld," The Journal of Philosophy, vol. 61, no. 19, 1964

アーサー・C・ダントー『ありふれたものの変容』松尾大訳、慶應義塾大学出版会、2017年

クレメント・グリーンバーグ「モダニズムの絵画」『グリーンバーグ批評選集』藤枝晃雄編訳、勁草書房、2005年

ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」『ベンヤミン・コレクション1』浅井健二郎編訳、ちくま学芸文庫、1995年

Bruno Latour and Adam Lowe, "The Migration of the Aura, or How to Explore the Original through Its Facsimiles," Thomas Bartscherer and Roderick Coover, eds., Switching Codes, University of Chicago Press, 2011

星野太『美学のプラクティス』水声社、2021年