堤麻乃が撮影しているのは写真である。自作の模型に光を当てて撮る。写真をプリントする。そのプリントに光を当て、また撮る。またプリントする。《In progress》(2023–)は、この単純な手続きの反復として継続されている。3年間、写真は写真だけを被写体としてきた。

反復は、二つのことを同時に起こす。工程を重ねるたびに、新しい像が生まれる。同時に、かつてそこにあった細部が白く飛び、見えなくなる。何かを得ることと、何かを失うことが、別々の出来事ではない。蓄積と消去は、同じ行為のなかで起きる。同じ一回の撮影が、両方をやってしまう。だから《In progress》の画面は、世代を経るほど輪郭がほどけ、幾何学がにじんでいく。像が消えていく過程を、光が明るくなっていく過程として見せる。これは相当に奇妙な事態である。

白く飛んだところ

《Exposed and Reappear》(2025)で、堤は、白く飛んで見えなくなった部分に、背面から光を当てた。すると、像が浮かんだ。これは技術的な工夫の話ではない。像は消えていなかったということである。プリントは失われたはずの細部を保持したまま、それを見せない状態にあった。消えたのは像ではなく、像を見るための条件だった。写真の反復は劣化として理解される。コピーのコピーは、何かしらの情報を失っていく。しかし堤の白飛びは、情報の消滅ではなく、情報が読み出せない状態への移行であった。光の当て方を変えれば像が戻る。この発見は堤の実践全体の意味を組み替える。《In progress》は、イメージが磨り減っていく記録ではない。イメージが見える状態と見えない状態のあいだを行き来する装置である。

この発見には前段があった。《Reframing 'In progress'》(2024)では、複数のプリントが深さのある額の内側で高さを変えて重ねられている。イメージに焼き込まれた光と影の上に、現実の光と影が落ちる。どちらの光なのか、見ているうちに判別できなくなる。写真のなかの光と、写真にかかる光、この境界が曖昧になったとき、写真にあてる光で像を戻すという一手までは、あと一歩だった。続く《Shadows and Spaces Reappearing I, II, III》(2025)では、前回の展示で生じた「影」が捉えられ、元あった場所に埋め込まれる。作品があった箇所は、少し飛び出した余白として可視化される。不在が、物理的な厚みを持つ。《Reflections》(2026)では、アクリルを介した反射と写り込みによって、イメージの空間と現実の空間が交錯する。

選ばれなかったイメージたち

そして新作、《Unselected Images I, II, III》(2026)はタイトルが、すべてを言っている。"選ばれなかったイメージたち"。

制作が続くかぎり、イメージは増え続ける。撮影し、プリントし、そのなかから次に撮るものを選ぶ。選ばれたものが次の世代に進み、選ばれなかったものは、そこに残る。3年分の蓄積は、選ばれた系譜と、選ばれなかった膨大な堆積として、作家の手元にある。

《Unselected Images》は、その堆積を撮った作品である。画面には、何百枚ものプリントが写っている。湾曲し、重なり、互いを覆い、影を落としあっている。一枚のなかに、さらに小さな集積が写り込んでいる。手前のプリントが奥のプリントを隠し、その奥にも同じものがあることが分かる。

そして本展では、選択の過程そのものが映像作品として提示される。作家が選んでいる手が動き、一枚が取り上げられ、他が残される。

見ていても、分からない。選ばれたものと、選ばれなかったものの差異は、微々たるものである。並べて見せられても、なぜそれが選ばれたのかが分からない。作家の手つきを見ても、根拠は現れない。

根拠が見えないことが、この作品が提示していることである。もし差異が明白なら「こちらのほうが構図が良い」「こちらのほうが階調が豊かだ」それは判断の話になる。技術と眼の話になる。しかし差異が判別できないのなら選択は根拠を失う。それでも選ばれた。選ばれたから、額に入り、壁にかかっている。写真を撮るということは、対象に重要性を授けるということだ。撮られたものは、撮られなかったものと違う場所に立つ。選ぶことが、それを作品にする。堤は、その回路を、剥き出しにしている。選択の恣意性を隠すのではなく、提示している。しかも、展示しても、なお見えない。見せているのに見えないということを、見せている。

選択という語では足りない。選択は、選ばれなかったものをそのまま残す。しかし堤の手続きでは、一枚が選ばれた瞬間、残りは「次に選ばれうるもの」という別の身分に変わってしまう。取り出すことが、取り出された後の全体を作り変える。ここで起きているのは選択ではなく、抽出である。そして抽出は、必ず残余を出す。残余は、次の抽出を待つ母体になる。だからこの手続きは、自分で自分の次を用意してしまう。

大きさが分からない

《Unselected Images》を見ていると寸法が分からなくなる。壁一面に貼られた巨大なインスタレーションにも見える。机の上に散らばった作業中のプリントにも見える。しかしながら展示された作品は、箱額に入った小さなプリントである。これは錯覚でも失敗でもない。写真がいつもやっていることである。

彫刻は、身体との比率で成立する。大きい作品の大きさは対峙した時に身体感覚を伴って実感として伝わってくる。絵画では、画面のサイズが鑑賞体験の一部になっている。しかし写真は写っているもののスケールを持たない。印画紙の大きさは持つが、そこに写っている対象の大きさは失われる。失われるからこそ、写真は何でも並べることができた。壁一面の絵と、手のひらに乗る工芸品が、同じページに同じ大きさで載せられる。スケールを奪うことが、並置を可能にし、比較を可能にした。失うことが、知るための条件だった。

堤の手続きは、この希釈を、作品の内部で何度も反復する。模型(小さい)に光を当て、光を撮る(スケールが失われる)。プリントになる(新しい寸法が与えられる)。その集積を撮る(また失われる)。プリントする(また与えられる)。3年間、この往復が続いている。しかし堤の作品において、希釈は比較を可能にせず、むしろ逆になる。選ばれた一枚と、選ばれなかった一枚。同じ手続きから出てきて、同じように寸法を剥がされ、同じ紙の上に載っている。並べることはできる。だが、比較が成立しない。写真がスケールを奪うことで手に入れたはずの能力が、ここでは空回りする。巨大に見えていたものが、手のひらに収まる。

次の層

堤麻乃の個展『In progress - Unfolded』では、2023年から現在(2026年)までの作品が、初めて一つの空間に集められる。しかしこれは回顧展ではない。会期中、展示された作品には会場の光が当たり、影が落ちる。それが撮影され、次の制作に取り込まれる。像を消したのも、像を戻したのも、次の層を生むのも、光である。展覧会は完成した状態の提示ではなく、次の層の素材の集積である。展覧会が到達点ではなく、次の展覧会の始点になる。堤は、その構造を作品の生成手続きそのものに実装している。展示することが制作の一部になっている。だから《In progress》は終わらない。作家が終わらせないのではない。抽出が、自分の次の条件を生み続けるからである。

制作を繰り返していくうちに細部はぼやけていく。イメージからは何を撮影した写真なのか読み取れなくなる。それでも見る人は、モチーフをあてがおうとしてしまう。読み出せないものを前にして、それでも何かを決めてしまう。そこには作家が一枚を選ぶときにしていることと同じような選択がある。そして、会場に立ち、作品を見て、おそらくは写真を撮るとき、見る人もまた、次の層に取り込まれている。