「再会」は、いわば日常的な言葉である。離れていた者どうしが再び会うこと。昨日のことにも、数十年ぶりのことにも使われる。そこに畳み込まれた時間の幅は、数日から数年にわたる。田崎蟻の同名の絵画において、その再会の相手は描かれていない。画面に現れる人物は一人だけで、その顔も見切れている。代わりに再会のテーブルに着くのは、無人のベビーカーである。複数が画面のあちこちに置かれ、それぞれの前にコーヒーカップやコップが添えられている。

再会

田崎 蟻, 再会, 2025, キャンバスに油彩, 909 × 727 mm, ©2025 田崎 蟻, Courtesy of the Artist and aaploit

ベビーカーは、不在の人々の代わりとして据えられている。その配置は意図されたものだ。画面下部には、ベビーカーとはっきり読み取れるそれがある。一方、左上では、影の中から箱状の形の端がのぞく。本体の大半は暗がりに沈み、はじめは人の気配のようにも読めてしまう。そこに隠れているのは、空のベビーカーである。より読み取りやすい下部のベビーカーは、この読み替えへ鑑賞者を導くために置かれている。見誤りと、その解消とが、順を追って仕組まれている。

この読み替えの瞬間が、絵画の中にある。人だと思っていたものが空の容れ物だと気づくとき、鑑賞者は不意に、見るという行為そのものを意識する。自分がいま絵画を見ていること、表面の筆触と影から意味を組み立てていたことを。作品は不在を描くのではない。鑑賞者が、見ている自分に気づく一点を生み出している。

光の扱いが、この論理を延長する。左上のコーヒーカップは影の中に沈み込みながら、より直接に光を受けたどのカップよりも強い存在感を放つ。影は存在感を弱めない、凝縮させる。影が不在ではなく存在として働くこの反転は、ベビーカーと同じ構造を内に抱えている。退いて見えるものが、かえって前に出てくる。

《再会》は、そこに無いものについての絵画である。同時に、見るとは何かを、鑑賞者にほんのつかのま意識させる絵画でもある。