佐藤の新作「在り処」は、作家自身を模った人形である。そう言い流してしまいそうになるが、実物を前にすると言葉に詰まる。・・果たしてこれは人形なのだろうか。

本展覧会は記念すべき佐藤の初個展であるが、人形の制作歴は浅くない。高校時代に初めて人形をつくってからこの春に東京造形大学大学院を修了するまでに16体を制作した。最新作であり、本個展でのハイライトでもある「在り処」は、大学院の修了作品として制作されたものである。 佐藤が作る人形は、一貫して球体関節人形と呼ばれる様式を取っている。球体関節人形とは、文字通り関節が球体で繋げられた人形のことだが、それだけでなく可憐な少女の姿として作られることも特徴のひとつで、脱がせることができるドレスが着せられていることが多い。一般的な着せ替え人形は、着衣の姿を基本として作られるので裸体の詳細は作られていないが、球体関節人形は胴体が裸体として作られており、これも様式として際立っている。衣服を脱がせるとのっぺりとして存在が薄まってしまう着せ替え人形とは違って、球体関節人形は、私たちのように、衣服の下に肉体を持って存在しているのである。

佐藤は、理想的な少女の姿で表された球体関節人形に魅せられ、それを自ら作り、自分自身をそこに投影させる。しかし、そのいつまでも変わらぬ人形の容姿は、その反射として、日々変化していく肉体を持つ、生ける自分の姿を際立たせるのだ。

私たちは自らの存在を肉体と魂に分けることに抵抗を感じない。肉体は魂を宿す器であると。ならば死体とは魂なき肉体であって、人形に近いのだろうか。佐藤が今回、自分をモデルにした球体関節人形を作ろうとしたのは、まさにこの問いを自らに発したからである。

佐藤は、大学院の1年次から医学部の解剖学実習室へ特別研究生として通って、実際の解剖体の観察を卒業間際まで繰り返し行った。動かなくなった人とその内部を見つめることは、自らと人形との狭間を実感するための確認的行為としても機能していたのではないだろうか。生きている私とは何か。生きていない人間とは。そして生きているような人形とは。これらは何かによって結びつけられるのだろうか。 そして、この確認行為の最終工程が、今の自分をできるだけ理想化せずに人形として表すというものであった。 佐藤が自分自身を球体関節人形として表すために用いた方法は、全身の計測値に基づく制作である。身体各部を計測すると共に、体表の凹凸や細部の確認のために全身を撮影した。また全身を3Dスキャンして60センチほどの縮小モデルを作り参考として用いた。顔と手足は個別に型取りをして参考用の石膏像を作った。計測値に基づいて等身大の設計図を描き、そこに関節の球を加えるようにして自分の姿を人形の姿へと変えたのである。造形工程は、佐藤の全ての人形と同様に、全て自らの手でモデリングされている。また本作の頭髪は佐藤の自毛である。

このようにして作家自身による客観的な観察に基づいて作られた“自分人形”は、裸体のままで展示される。だが佐藤は、そこに自分の裸身を晒すような気恥ずかしさは無いと言う。この人形は、一個人の私というより、「人間代表として」そこに立っているからだと言い切る。個というより公としての、誰かであって誰でもない人体としてそこにあると。これは解剖学における人体への視点でもあり、佐藤がこれまで作ってきた球体関節人形のあり方でもある。

人に操られるのが人形なら、この作品はあえて人形ではなく“人のかたち”とでも呼びたくなる。なぜなら、これは誰かに操られ愛玩される対象として作られていないからだ。 人間と人形。生と死。自と他。作家自身のかたちをしたこの作品は、私たちが簡単に分けてしまうそれらの狭間に立って問いかけてくる。その問いかけは佐藤自身のみならず、私たちにも向かっている。なぜなら、私たちも皆それぞれが「人間代表として」ここに在るのだから。