黒には人を魅了する何かがあると思う。萩中茉優のメゾチントの深い黒を見るとき、様々な情景を受け取る。
メゾチントは銅板に無数の細かな傷をつけ、そこにインクを乗せて、銅板と紙とを強い力でプレスする。それは版を紙に刷る以上に紙に物質的な変化が表れる。画面に現れた黒は吸い込まれるような黒だが、光を内包しているようでもある。黒の明るさがありながら、黒に深く沈みこんでいく。相反するようだが、画面を見ているうちに視線は黒の奥へと誘われる。
画面の中の白い箇所にも、インクは乗っている。近づけば微細な黒の線が見えるが、それでも白く輝いている。元の紙の地の白よりも輝いて見えてくる。
メゾチントは、ベルソーという刃のついた道具を使って銅板に均質な傷を打ち込む工程(目立て)から始まる。銅版に付けられた目立て、この状態で版を刷ると画面は一面の黒である。白の部分は、銅板に施した傷を削り、あるいは磨いてインクが乗らないようにする。とはいえ銅版には目立てによる微細な溝はあり、完全に無にはならない。そうして浮かび上がらせたモチーフは、黒の深みがあるからこそ白が立ち上がる。そして白の明るさが黒の深みを見せる。黒と白、互いに引き立てながら、この二色で画面は成り立っている。萩中の作品を初めて見たのは学部の卒業制作だった。黒のグラデーションが目をひく画面に、キャラクターのモチーフが立ち上がる。物語があり、白と黒のグラデーションに、どこか遠くに連れて行ってくれるような感覚になった。
大学院に進んだ萩中は、さらなるメゾチントの技法研究に入る。大学院1年次のレビューでは、ベルソーの製造年月、番手、新品か使い古しで刃の鋭さが弱くなったものか、そして目立てをつける回数を変えながら、萩中が理想とする黒を探求する。同じモチーフ(卵)をベルソーの番手の違い、目立ての数や方向などのパラメータを変えて、何十と試していた。ベルソーの押し込む力、刃の摩耗の状況なども、完成する画面に影響を与える。全ては理想の黒に出会うために探求している。
《干物脱走》は、大きなメゾチント作品である。142×92cmの縦位置の作品、画面の大部分が黒に覆われている。画面上部から現れた手が持つ縄には、小さな魚が数匹結ばれている。一番下の縄はほどけ、足の生えた魚が立ち上がり、縄に縛られた同朋を見上げている。今まさに解き放たれ、自身の置かれていた状況を振り返っている。もう一匹、縄の拘束からは逃れたが、力なく転がる魚もある。画面を覆う艶やかな黒の中で、下方にはステージのようなスポットライトが浮かびあがる。これからどのような物語が始まるのか、幕開けのようである。注意深く見れば、縄に縛られた魚たちもまた、それぞれに足を持っている。そして、すべての魚は鱗の質感も、目の向きも、身体のひねりも一匹ずつ異なる。食材として束ねられた魚でありながら、それぞれが固有の存在としてそこにいる。
深く沈み込むような黒、スポットライトの白とのコントラストが鮮やかであり、黒の沈み込みがあるからこそ、研磨した白が輝く。だが、この黒の仕事は単なる技巧の誇示ではない。干物にされ、縄に連ねられた魚たち、逃げ出そうとする一匹。干物にされてなお、食べられることからの脱走。不条理でありながらコミカルにも見えるこの主題をメゾチントの黒は宙吊りにする。黒の重力が脱走劇を生死の境へと引き上げ、消費されることへの根源的な抵抗の重さを与える。そして、すべての魚が一匹ずつ描き分けられていることは、それ自体が静かなテーゼでもある。匿名の食材として一括りにされることへの抵抗。縛られた個体のひとつひとつに固有の顔を与えることで萩中は群れとして括られる存在に個の生を取り戻している。
この黒は6年の探求の末に選び取られたものだ。理想の黒を求めた長い研究のプロセスそのものが、この画面の強度に折り畳まれている。萩中茉優にとって、黒に至るプロセスは技術の習得ではなく、表現の核心そのものである。